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  • 「今,目覚めずして いつ救われるか」戦艦大和の乗組員(完)

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【大和の悲劇】
 大和がレイテ湾突入を断念する6時間前、日本軍の地上基地から、航空機が出撃しました。神風特別攻撃隊―――――片道分の燃料しか積まず、生還を期さないという作戦の決死の部隊です。これが、いわゆる特攻の始まりでした。
 昭和20(1945)年4月1日、アメリカ軍は沖縄に上陸します。支援する兵力は艦船1500隻以上、航空機1700機あまり。主力となる第58機動部隊は空母16隻、艦載機およそ1000と圧倒的なものでした。
 4月5日、天1号作戦が発令され、徳山沖に停泊中の大和に出撃命令が下ります。目的地は沖縄。片道分の燃料を積んで、沖縄に特攻、自ら浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり、敵の陸上部隊を砲撃するという作戦でした。
 艦隊を率いる伊藤整一中将は、当初この命令に強く反対しました。しかし連合艦隊司令部の「1億特攻のさきがけとなれ」という言葉を聞いて、出撃を承諾したといいます。
 4月6日午後4時、戦艦大和は出撃します。豊後水道に達しようとしていた午後6時、乗組員は看板に集められました。そして初めて正式に、この作戦が生還を期さない特攻であることを知らされます。明くる4月7日早朝、大和の出撃を察知したアメリカは空母部隊に迎撃を命令しました。その兵力は、新鋭空母12隻、艦載機およそ800。大和の頭上には護衛の航空機はありませんでした。
 午前8時15分、大和はアメリカ軍索敵機に発見されます。午前8時18分、アメリカ空母部隊から第一次攻撃隊200機以上が発進。12時32分、アメリカ軍の第1次攻撃隊、およそ百機が雲の間から出現、急降下爆撃を開始しました。
 12時45分、戦闘開始13分後、アメリカ軍の魚雷1本が大和の左舷に命中します。射撃をすべて目測に頼る大和の対空砲火は、厚い雲を縫って現れる敵機になかなか照準を合わせることができません。
 午後1時34分、アメリカ軍の雷撃機は左50度から6本の魚雷を投下。1時37分、そのうちの3本が左舷中央部に命中。7分後の1時44分、さらに2本がまたもや左舷に命中しました。魚雷によって穴が開いた左舷から海水が侵入し、大和は左に20度近く傾きました。
 さらにアメリカ軍は、魚雷のほとんどを左舷に集中させました。そして、3本の魚雷が続けざまに命中。再び傾いた大和は、二度とバランスを取り戻すことができませんでした。
 午後2時17分、アメリカ軍雷撃機はまたも魚雷を投下。その魚雷は大和の左舷中央部に命中しました。大和の傾斜は急速に大きくなりました。伊藤長官はついに「特攻作戦中止」の命令を下しました。そして、長官室に入ると内側から鍵をかけました。午後2時23分、大和は横転、その瞬間、大爆発を起こしました。大和の沈没によって命を落とした乗組員は3000人あまりにも及びます。大和の沈没、それはかつて無敵を誇った日本海軍の滅亡を象徴させるものでもありました。

 【無にしてはならない教訓】
 大和乗組員だった吉田満さんの著書「戦艦大和ノ最期」には、特攻を知った若い士官が、死ぬことを覚悟して語った次のような言葉が記されています。「進歩のないものは決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や特技にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」
 昭和20年8月15日、大和沈没の4ヶ月あまり後、日本は敗戦の日を迎えることになりました。
 日本海軍の栄光を担うべく誕生し、やがてその滅亡の象徴となった戦艦大和は、今も3000人余りの尊い命と共に、九州沖の海底深くで眠り続けています。

  • 「今,目覚めずして いつ救われるか」戦艦大和の乗組員(完)

(Kazu)