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「今日は死ぬ番である」藤堂高虎

寝室を出る時から、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があればものに動ずることがない。 足軽から32万石の大名に上り詰めた男 藤堂高虎の家訓

【うつらうつらと暮らすのは意味がない】
元亀元(1570)年6月、織田信長と浅井・朝倉が激突(姉川の戦い)、その時、浅井軍の中に、初陣を迎えた一人の足軽がいました。藤堂高虎、15歳。身の丈6尺2寸。当時の平均より、およそ30センチも高い188センチの巨体です。筋骨は隆々、子供の頃から一度も泣いたことがないという剛の者でした。
藤堂家は、もともと近江の19の村を支配する領主でしたが、乱世の中、領主の地位を奪われ、父の代には地侍に落ちぶれていました。高虎の父は、安定した収入が得られる知行取りになることを目指しましたが、その願いはかないませんでした。
「父の果たせなかった知行取りになってみせる。そのためには武功をあげるしかない」
そう心に期した高虎は、姉川の戦いで、見事敵の武将の首を取る手柄を立て、翌年の小谷城の戦いでも、最初に敵を討ち取る一番首の武功をあげます。
領主・浅井長政は、高虎に褒美の刀を授けます。しかし高虎は新天地を求めて浅井のもとを離れ、浅井家から目と鼻の先の阿閉貞征のもとに仕官します。
そこでも彼は、チャンスをものにしました。ある日、高虎は家中の裏切り者2人を始末するよう明示られます。相手は剣の使い手として知られる男たちでしたが、高虎は二人を難なく討ち取ったのです。しかし、高虎はわずか1年で阿閉家も後にします。
高虎の次の仕官先は、それまで仕えた主君の敵、織田信長の家臣・磯野員晶でした。高虎はここで、80石の知行を与えられました。この時、高虎18歳。父親が一生かかっても果たせなかった知行取りの夢を、わずか3年で果たしたのです。
小田一門の家臣となった高虎は、ここでも先陣に立ち、めざましい活躍を重ねます。しかし、いくら武功を上げても知行が80石から一向に上がりません。 高虎は、織田の家名も、やっと手に入れた80石の知行もあっさり捨て、3度目の浪人になります。
「数年昼夜奉公しても、気の付かない主人であれば、代々仕えた主君であっても暇を取るべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない」

  • 「今日は死ぬ番である」藤堂高虎

(Kazu)

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