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「為せば成る」上杉鷹山 

「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
米澤藩の財政再建を成し遂げた名君 上杉鷹山の言葉

山形県南部に広がる米沢盆地、この地に藩主の上杉家が入ったのは今から約400年前、慶長六年(1601年)のことです。上杉家の先祖は戦国の雄・上杉謙信です。
謙信の死後、上杉家の領地は秀吉により東北へ移されます。その後、関ヶ原の戦いで西軍方についたため、江戸時代は三十万石へと大きく削減。さらに藩主の急死によって十五万石にまで減らされ、慢性的な赤字に悩まされていました。
その上杉家に、鷹山は九州の大名家から養子として入り、十七歳の若さで米沢藩の藩主となったのです。
鷹山がまず行ったのは、藩主自ら倹約することでした。木綿の衣服に一汁一菜。生活費はそれまでの7分の1にまで切り詰めました。改革の理念を自ら示すことで、藩全体に倹約を促そうとしたのです。
鷹山は、自ら率先してすきをふるい、家臣総出で開墾に着手。その延べ人数は一万三千人にものぼりました。
しかし、この鷹山の改革は藩の重臣たちの激しい反発にあいます。その中心人物、藩の儒学者・藁科立沢は改革に不満を持つ重臣を募り、鷹山に異議申し立てを行います。安永二(1773)年六月二十七日、重臣七人が改革の一切をやめるように鷹山に直接談判に行きます。「七家騒動」です。重臣たちは建言書で改革を痛烈に批判します。
「一汁一菜や木綿の衣は小事に過ぎない。武士に農業をさせるのは、鹿を馬と混同するような馬鹿げたことだ。鷹山の改革は筋違いである。」
その三日後、鷹山は重臣たちに厳しい処罰を言い渡します。二人が切腹、五人が隠居閉門。中心となった藁科立沢は打ち首でした。
鷹山は、改革に立ちはだかる保守派を実力で排除し、家臣の竹俣当綱を中心に本格的な財政改革に乗り出します。

参考文献)その時歴史が動いた 心に響く名言集 NHK「その時歴史が動いた」編 三笠書房

つづく↓

「為せば成る」上杉鷹山(つづき)

 

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