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「今日は死ぬ番である」藤堂高虎(3)

(つづき)
そして慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、東軍の家康方に属した高虎は、西軍の長・脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱の寝返り工作に成功、関ヶ原の戦いは家康方が勝利します。
しかし戦いの後、高虎は自分が置かれた状況が決して安泰ではないことに気づきます。関ケ原で東軍勝利に貢献した小早川秀秋が、2年後にお家廃絶。さらに、小川祐忠も所領没収。家康はいくら自分の味方につこうと、裏切りを行う外様大名を容易に信じようとしなかったのです。次々と主君を鞍替えしてきた高虎にも、その目は向けられていました。
さらに、高虎の立場を危うくする事件が起きます。慶長19(1614)年10月、大阪・冬の陣が始まってすぐ、大阪型の密使の書状が家康の手に渡ります。それは、大阪城の豊臣秀頼から藤堂高虎宛てに書かれたものでした。
「この上は、申し合わせたように、東軍を裏切ってくれれば、約束した領国を与え、その他の恩賞も望み次第とする」
高虎が秀頼と内通している。家康陣営に衝撃が走りました。実はこの書状は、家康方の内部分裂を誘うための大阪方による謀略でした。もちろん事実無根でしたが、高虎の経歴を知る諸将は、疑いを拭うことができません。
慶長20(1615)年5月6日、大阪・夏の陣の先鋒を務めたのは藤堂軍でした。大阪城へ向け進軍を始めた藤堂軍5000。河内の八尾の付近で大阪方の長宗我部盛親軍を発見します。
長曾我部軍は、後方にある家康本陣の奇襲を目論んでいました。両軍の間には湿地帯が横たわっています。高虎は家康に忠義の心を示すために、不利を承知で突撃を命じます。長宗我部軍は、ぬかるみに足を取られる東道軍に容赦なく襲いかかります。それでも前進を命じ続け、ついに長宗我部軍は敗走、家康本陣への奇襲は未遂に終わります。
この戦いで、高虎は6人の大将を含め、300人以上の家臣を失いましたが、大阪・夏の陣は家康方が勝利します。命をかけて忠義を見せた高虎を、家康は「国に大事が起こった時は、一番手を藤堂高虎とせよ」と評し、藤堂家は加増され、伊勢・伊賀32万国となります。この時高虎60歳。槍1本で初陣してから45年、8番目の主君のもと、国持ち大名へと成長をとげていったのです。

《藤堂家の家訓》
藤堂家が治めた伊勢・伊賀32万国。しかし高虎には、伊賀上野城でゆっくりと過ごす暇は晩年まで訪れませんでした。家康死後も2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に仕えるため、ほとんどの時間を江戸で過ごしたのです。
そんな中、高虎は自らの人生から学び取ったことを、200か条にわたる家訓にまとめました。その中で、高虎はこんな言葉も残しています。
「人をだましてはならない。真の時承諾が得られない。深く慎むべし」
寛永7(1630)年10月5日、藤堂高虎死去、享年75。次は、戦国乱世を勝ち抜いた藤堂高虎が残した家訓のいちばん最初の言葉です。
「寝室を出る時から、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があればものに動ずることがない」
高虎の教えを守った藤堂家は、江戸260年間、改易・転封を受けることなく存続しました。

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